「光る君へ」では、ファーストサマーウイカの明るい清少納言が人気になり、清少納言とはどういう人だったかなど、興味を持つ人も増えました。
枕草子の中の『雪のいと高う降りたるを』という誠心誠意勤めた定子との、栄華を極めた時代の思い出を綴った一説がドラマの中で再現され注目を浴びる1シーンになりました。
このシーンの意味と枕草子とはどういうものだったかを解説します。
たった一人の悲しき中宮のために 枕草子は描き始められた
ファーストサマーウイカも撮影開始に、清少納言のユカル土地を訪れインスタにあげました。
京都でも特別なパワースポットとして有名な車折神社です。
才色兼備に慣れるパワーが授かり、お守りにも清少納言が刺繍されています。
ここは芸能神社が併設されていて、有名な芸能人の名前がずらりと並び、この神社に成功を祈願しているようです。
この写真もウイカさんの隣は元ジャニーズの京本大我さんですね!
清少納言が使えた藤原定子は、一条天皇に寵愛されたことで有名です。
歴史の教科書では藤原道長が有名ですが、その兄が先に関白となって栄華を極めた時期がありました。
その兄、道隆の娘が定子です。
定子の母、貴子は、円融天皇の時代、高階貴子は内侍として出仕していました。
決して高い身分の家柄ではなかったのですが、才知あふれる女性であり、やがて和歌や漢籍の知識が周囲に知られるようになってゆきます。(清少納言に似ていますね)
そして中関白の藤原道隆に見初められました。
母の影響を受け、定子も同じように才知あふれる女性として育っていく。
その女性ながらに漢文などの知識も豊富だった定子のもとに、そのお相手として勤めたのが清少納言だったわけです。
10歳も年上の清少納言は、定子が18歳のときから死去するまで彼女に仕えました。
父の道隆(道長の兄)は関白となり、一族は栄華を極め、娘の定子自身も一条天皇の中宮となりました。
ところが父の道隆が病で没すると、一族に翳りが見えてきました。
枕草子は没落していく中宮定子様との楽しかった想い出だけを切り取った少し切ない作品です。
枕草子に綴られた『雪のいと高う降りたるを』とは、彼女が誠心誠意お仕えした中宮定子様との大切な想い出の一幕でした。
清少納言の忠誠心で書かれた切ない随筆こそ「枕草子」でした。
道隆の死後、あんなに栄えて、一条天皇の中宮となった定子が、どんどん落ちぶれていく姿をそばで見ながら、一切そのことには触れず、栄華を極めていたころの定子と自分達の楽しかった思い出だけを書き残したのが枕草子でしたが、現実は厳しいものでした。
定子へ忠誠心を貫いた記録書が「枕草子」と言えます。
「春はあけぼの・・」ではじまる枕草子は、今の言葉で言えば、清少納言による中宮への推し活だったのでしょう。
中宮が出家したあとに、妊娠がわかり、ますます命を絶ちそうな中宮をみて、清少納言も、どれほど苦しかったか。
藤原定子を慰めようと書いたものが「枕草子」とも言われ、清少納言の一途で切ない思いが涙を誘います。
雪のいと高う降りたるを~「香炉峰の雪」
ある雪の降る日のできごとです。
明朗快活で聡明な定子は、「ただ雪見をするのはつまらない、何か面白い趣向はないものか」と、思いついたのが白居易(白楽天)の漢詩の一句を女房に投げかけて返答させるというものでした。
「だれもが知っているその句に謎をかけ、だれかに応えてもらったら面白いわ」そう思った定子は、果たして才女の少納言がどのように返してくれるかしらと、内心ワクワクしながら楽しんでいたのではないかと思われます。
【原文】
雪のいと高う降りたるを、例ならず御格子(みかうし)まゐりて、
炭櫃(すびつ)に火おこして、物語などして集りさぶらふに、
「少納言よ、香炉峰(かうろほう)の雪いかならん」と仰(おほ)せらるれば、
御格子あげさせて、御簾(みす)を高くあげたれば、わらはせ給ふ。
人々も、「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ。
なほ、此の宮の人には、さべきなめり。」といふ。
参考図書:枕草子(岩波文庫、池田亀鑑校訂)
【現代語訳】
雪が大変深く降り積もっているのを、いつになく御格子を下ろしたままで、炭櫃に火を起こして、私たち女房が話などをして集まって伺候していると、
中宮様が「少納言よ。香炉峰の雪はどんなであろう」とおっしゃるので、女官に御格子を上げさせて、御簾を高く巻き上げたところ、中宮様はお笑いになった。
周りの人々も「白楽天のその詩句は知っていて、歌などにまで読み込むのだけれど、中宮様の謎かけとは思いもしなかったわ。
言葉でなく行動として、とっさに御簾を上げた少納言のように、やはり、この宮にお仕えする人としては、そうあるべきなのねと言う。
そう、定子が期待したのは「簾を上げる」が正解だったのです。
少納言は定子の謎かけに、言葉で応える代わりに、御簾を巻き上げて見せました。
その機転の利くしぐさに、定子は満足の笑みを返したのでした。
現代語訳を見ると、一見清少納言の自慢話にも取れます。
でも実際は、落ちぶれていく定子の姿を見ながら、栄華を極めた頃の美しい才女だった清少納言ガ心からお使えした定子の様子だけを綴り残した忠誠心の塊のような随筆であり、清少納言の切なく悲しい思い出の書が枕草子でした。
清少納言は、プライドの高い、自慢話の多い気の強そうな女性のイメージがありますが、実際は忠誠心に満ちた女性であり、定子自身も栄華を極めた時期が短く、清少納言も宮中に仕えた時間は短く、有名な割には実際は宮仕え期間が長く有りませんでした。
紫式部に縁がある神社として、同じ嵐山にある野宮神社です。
ここは絵馬も紫式部の絵が描かれています。
縁結びの神社としても知られます。
清少納言のゆかりの神社も嵐山なので、「光る君へ」ファンの方は、京都に行ったら嵐山をまわると良いかもしれません。
定子が落ちぶれたことをきっかけに、清少納言も宮仕えから去りました。
清少納言が宮中から去ったあとに紫式部が宮仕えに出てくるため、実際二人が宮中で合うことはなかったと言われます。
紫式部は宮仕えが長く、道長の援助を得ながら源氏物語を書いていき、清少納言は、宮中を退いて田舎に引きこもってから、華やかだった思い出を綴ったという形です。
その意味でら枕草子は、落ちぶれた上司に一生忠誠を誓い、華やかな定子の様子だけを書き残した随筆で、清少納言の真面目で誠実な性格を表しました。
紫式部は、身分は低かったもの、ずば抜けた知性がかわれ、藤原道長の娘、彰子の教育係として宮仕えをし、当時紙は貴重なため、物語をかけたのは、道長に目をかけられ紙の支援もあったためだという。
源氏物語は、小説で、枕草子は、随筆で、種類が違うため比較はできないもの、しいて比較すると、源氏物語の方がレベルが高いという評価をする学者もいます。